2013年9月16日月曜日

わが闘争を読みながら 第三章の途中

これについては色々と大人の事情というか、タブーもあるかと思いますが、思うように書いてみたいと思います。

とりあえず途中までですけど、このヒトラーという人は文章を書くうえでも演説の時のように効果があると思えば関連のある主張を織り込んで書いていくので、たぶん彼の考えの概要は大体掴んでるんじゃないかと思ってます。


今2013年9月ですが、少し前の日本の状況とヒトラーから見た第一次大戦後ドイツ民族の置かれた状況に共通点を多く見出しています。

敗戦によって民族的に戦勝国側やその他の勢力から抑圧されていること。これは直接的なものだけでなく、「空気」もありますよね。それが大きいと思います。

他の民族は許されても敗戦した民族には許されないという空気。

真面目に社会を支え、割を食っていてもそれを享受する民族性。

政治的に活動することを良しとしない民族性。

そういう他民族を見ていて愚かだと思いつつ、許せない気持ちが全体に何となくある。


ヒトラーは革新派という意味で左翼的です。根底にあるのは上に書いたように理不尽な状況に置かれているドイツ民族を何とかしたい、腐敗している政治と宗教を正して効率的に福祉や労働階級の生活の向上に充てるべきだ、といった考え方で、これらは彼のウィーンでの若き日の生活から見たものから来ていると思います。

これらについての考察は的を得ていると思いますし、事実、彼は事、内政に関して大きな成果を出しています。

そして彼がこれらを実現する手段として取ったのが「演説による民衆の集約」で、書の中でも汎ドイツ主義運動を例に出してそのある意味正統的な手段による政治活動を批判して自身の主張の正当性を論じています。

政治目的は理想的、手段は現実的。


以下は僕の考えです。

当時は世界がそうだったからでしょうが、彼は「民族の利益」という立場に立ってしまったことでファシズムと呼ばれるような道に行ってしまったのかなと思います。

実際に僕はヒトラーに会ったことがあるわけでもないので、本当に彼が残虐な精神でユダヤ人の隔離政策を進めていたかどうかはわかりません。

歴史なんてそんなもんだと思いますが、事実に対して後から権威をもった人間が自分たちの都合の良い解釈を付けて評価しているだけで、それらに捉われない考察を各個ですべきだと思います。(これについてはヒトラーも「自分の主義に反する立場から見た考察が必要」と論じていますね)

なのでファシズムの内容については触れませんが、民族主義という対等の仕方は勢力の拡大という意味にしかならず、変わらない大きさのパイの分配率を変えるだけという外交戦略になるだけだと思うのです。

これにより彼はいわゆる搾取される側、「負け組」を作るしかなく、それが当時彼が怠惰だが裕福とみなしていたユダヤ人になったのではないかと。


それが戦争を生み、結局ドイツ民族はまた負け組に落ちてしまいました。


ただ、今のドイツは同じ轍を踏んでいません。国民性は同じですが立場は勝ち組です。

これも過去の教訓を生かし、政治的にうまく立ち回っているからなんでしょう。


現在の日本を振り返ってみると、どうでしょうか?

実際「わが闘争」の内容はネット右翼(僕の目には様々なタイプがいるように見えますが)と呼ばれる人たちの共感を強烈に得るのではないかと感じています。左翼の書が右翼に受けるのは面白いですよね。

危惧するのは同じ轍を踏まないかという事です。

このまま民族主義的な論争を繰り返していてもエスカレートするだけでしょう。いつ日本版ヒトラーが生まれてもおかしくありません。

だからと言って今まで通り隣国の言いなりになっていても、内部的フラストレーションが溜まる一方で、爆発力を増すだけです。

かといって隣国がもはや議論にならないほど感情的だと言うことも事実。


そこで今こそ本当の外交力が必要のではないかなと。


ドイツにしたって、相手にしているのは世界的に悪名(?)高いユダヤ系組織や人権擁護団体(ユダヤ系が多いでしょうが)です。

でも、それなりにのらりくらりとうまくやっている。

ここ最近、メルケル首相が献花している姿に「日本もそんなやり方やってたら痛い目みまっせ~」というメッセージに感じたりしています。



まぁつまり、僕にも良い答えは思いつきません(笑)。

地道に情報収集とロビー活動するしかないでしょうね。

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